伝記 小泉信三(慶應義塾大学出版会)
例年、慶應義塾横浜初等部の願書には、創設者・福澤諭吉の著作『福翁自伝』を読んで、所感を記す指示がありました。
これまでとは異なり、2020年度の横浜初等部の入試では「『伝記 小泉信三』を読んで、慶應義塾の塾風・気風(空気感)について感じるところを書いてください。」となっています。
そこで、ここでは、『伝記 小泉信三』の目次に沿って、一節ごとにそれぞれどんな内容なのか。
あらすじをまとめながら、途中に出てくる名言も紹介していきます。
小泉信三(1888-1966)は明治から昭和を生きた人物です。
慶應義塾大学を卒業後、母校の教授に就任、戦前に塾長になっています。
戦後になると、先ごろ退位された上皇陛下の皇太子時代に、ご教育の最高責任者として東宮御教育常時参与をつとめました。
また、上皇ご夫妻のご成婚にも尽力した人物です。
「はじめに」では、触れられていませんが、後のページ内容から補足して、他の経歴を2つあげます。
小泉は経済学者として、1949年に出版された著書「共産主義批判の常識」がベストセラーになっています。
そして、1959年には文化勲章を受章しています。
信三は1888年5月4日、東京の三田に生まれます。
信三の父、信吉は慶應義塾塾長、横浜正金銀行(筆者注・現在の三菱UFJ銀行)の支配人を歴任した人物でした。
その父は、45歳の若さで亡くなっています。
その時、信三は6歳でした。
父の死後、小泉家は福澤諭吉の庇護のもと、福澤邸内で暮らすことになりました。
ここでは、小泉が福澤家に移り住んだ頃の福澤の人となりが記されています。
福澤の教育の根底にある考えは「先ず獣身を成して後に人心を養う」(P8)。
毎朝、薄暗い時間に起きて、散歩をしてから、米つき小屋で米をつくのが福澤の日課です。
朝8時半~午後1時までの4時間半、刃渡り75センチ、約1キロもの大きな刀を素早く抜いて、振るという動作を休みなく続けたそうです。
福澤は還暦を過ぎていましたが、この日課をこなしていたそうです。
また、福澤は教訓集『修身要領』を作成し、「独立自尊」を人のあり方として説きました。
「心身の独立を全うし、自から其身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(P12)という言葉を残しました。
その後、福澤諭吉は1901年、66歳で亡くなっています。
信三は慶應普通部に進学し、そこでテニスと出会います。
信三の持論は「天才とは異常な努力をなしうる人だ」(P21)という考えでした。
負けず嫌いの信三は練習に打ち込み、当時テニス界の覇者だった一橋大学を相手に慶應が初めて勝利するのに貢献しました。
信三は慶応義塾大学政治学科に進み、テニスで鍛えた心身を、首席で通すという努力に変えていきます。
大学を卒業した信三は、そのまま慶應義塾大学の教員になりました。
その年、慶応義塾大学の文学部教授として後の文豪、永井荷風がやって来ます。
信三は荷風の授業を一回も欠かさず出て、専門以外にも興味関心を広げることを怠りませんでした。
その後、信三が著述家として、有名になる素地を作っていったのです。
「どんな仕事についても、自分の品位を高め、心を豊かにする教養や趣味を身につけることは、大切なことです」(P37)
信三は経済学研究のために、イギリスとドイツへの留学を慶應義塾から命じられます。
第一次世界大戦下のヨーロッパに5年間留学し、諸外国の最新状況を吸収して戻って来ます。
日本に戻った信三は28歳の若さで慶応義塾大学の教授に就任しました。
留学から帰ったばかりの情熱あふれる信三の講義に学生たちは魅かれていったそうです。
また、信三は書物の出版、新聞雑誌の寄稿など経済学者として旺盛な活動で、その名は高まっていきました。
その際、徹底的に意見をぶつけあい、正しいと思っている自分の考えは、相手が誰であろうと、正々堂々と意見したそうです。
恩師「福澤諭吉」はいかなる現実にも、目を背けることなく、学問の力を信じていました。
信三は、その覚悟を継承していこうとしていたようです。
信三は昔からの友人、小説家の水上瀧太郎の妹である、とみと結婚します。
そして、長男信吉が生まれるのですが、間もなく、信吉は重態に陥ります。
必死の看病の甲斐があり、命の糸はつなぎとめられたのでした。
信三は信吉、加代、妙という三人の子どもに恵まれました。
6歳で父を亡くした信三には父の記憶がなく、独学で父親をつとめる子煩悩さでした。
その頃、信三は慶應体育会テニス部の部長になりました。
宿敵早稲田と戦いに向け、日々学生を指導していました。
信三の学生とのつき合いは、テニス部以外にも、木曜会というものがありました。
木曜の夜に小泉家に学生が集まり、学問の話をしました。
時には70人もの出席者になることもありました。
テニス部部長を44歳で辞任した信三は、翌年、45歳の若さで慶應義塾の塾長に推薦されました。
塾長になった信三は日吉キャンパスの新設に貢献します。
後の慶応義塾大学理工学部の前身、藤原工業大学の設立ににも尽力します。
創設者の王子製紙社長・藤原銀次郎は「すぐに役立つ人間を作る」という考えでしたが、「役に立つ人間にするには基礎理論をしっかり教えることが必要だ」という考えが信三にはあり、一歩も譲りませんでした。
信三の説得を藤原は了解し、私学初の工業単科大学が誕生しました。
入学式で信三は福澤の言葉「自我作古(我よりいにしえをなす)」(P85)を引き、第1期生の栄誉と責任の大きさを説きました。
福澤が述べた「慶應義塾の目的」である「一所の学塾として自から甘んずるを得ず。気品の泉源、智徳の模範たらん、もって全社会の先導者たらん」(P87)を信三は、いろいろな形で学生に語ったそうです。
また、容儀礼節の重要さを説き、身だしなみの大切さも示しました。
そして、各教室に掲げるための塾長訓示を示しました。
この訓示は印刷され、全塾生にも配付されました。
自らを厳しく律していくことができるようにと学生に働きかけたものです。
1941年、息子信吉が慶応義塾大学を卒業し、昔からの憧れの海軍に勤務します。
慶應は時局にあって、自由な気風が目を付けられ、福澤像を撤去せよなどの軍の圧力がかかります。
しかし、信三はそれに屈せず学校を守りました。
息子信吉は乗艦し、戦地へ赴く日々です。
小泉家は皆、気が気でありません。
1942年、南太平洋上で信吉は戦死し、小泉家は悲嘆に暮れます。
信三は翌年、信吉の追憶記「海軍主計大尉小泉信吉」を書き、私家版として出版します。
この本は戦後、出版され、小泉文学の最高傑作、名著と称されています。
戦況が困難になると、学校への圧力は強くなっていきました。
1943年、敵国のスポーツであるとして、六大学野球が解散を命じられました。
また、大学生の徴兵猶予がなくなり、大学生も戦地に行かなければならなくなりました。
そんな中、塾長信三に対して慶應の野球部員たちが次のような懇願をしたそうです。
「戦争に行く前に、最後に大好きな野球がしたい。生きて還ることはないかもしれない。できれば早稲田と早慶戦をやりたい。それから戦争に行きたい」
信三は、ただちにその申し出を許可しました。
こうして、「出陣学徒壮行早慶戦」が行われました。
この試合は「最後の早慶戦」と呼ばれています。
1945年、小泉家のある三田への空襲で、家は焼失し、信三は瀕死の大やけどを負います。
そうした中、終戦を迎えました。
信三は退院の日に「塾生諸君に告ぐ」という文章を書き、慶應の構内に掲げました。
福澤先生は「賢い人と愚かな人の違いは、ただ学ぶことによって分かれるのだ」とおっしゃったように、今こそ学んでいくのです。特に道徳的精神を高く持つのです。
こう記し、詩人、佐藤春夫が慶應の学生に歌った歌を紹介しました。
まなこを挙げて 仰ぐ青空
希望は高く 目路ははるけし
慶應義塾の 若き学生
(P144)
GHQの公職追放者の取り調べは信三のもとにもやって来ました。
信三は、次のようなたとえ話をまじえて、自身のスタンスを述べました。
「ある船の乗組員が、台風に近づいていて危険だから出港すべきでないと訴えたにもかかわらず、出港するべきと言う者が多数で、結局港を出た。そして大嵐にあって浸水した時に、自分は出港に反対だったといって、他の乗組員が水かきしているのを手伝わずに、船の転覆と自分自身の溺死をただ待たなければならないのか。出港に反対したからといっても、船上での緊急の勤めを行うべきだ」(P146)
その後も、たびたびアメリカ軍の取り調べを受けましたが、筋の通ったぶれない軸を持って応対し、ほとんどの大学学長が戦争責任を問われて退任した中で、信三は公職追放にはなりませんでした。
1947年、信三は13年間務めた塾長を退任します。
戦後の混乱期、信三は自ら「書籍製造業の再開」と言うほど執筆活動を行い、知識を求めた国民に感銘を与えました。
中でも「共産主義批判の常識」はベストセラーになり、今でも岩波新書で読み継がれる「読書論」もこの頃書かれました。
また、この頃、博識で決断力に富む信三には、国会議員、国務大臣などの公職依頼が相次ぎました。
それらの依頼を全て断っていた信三でしたが、東宮(皇太子)の御教育参与だけは福澤が「帝室論」を記していることもあり、承知しました。
信三は皇太子殿下の教育として、スポーツの鍛錬が重要だと考えました。
「先ず獣身を成して後に人心を養う」(P155)という福澤の言葉を大切にしていたからです。
信三は一つのスポーツに精進することは、人の心を鍛えると考えていました。
フェアプレーの精神を重視し、殿下を特別扱いすることなく、打ち損じたボールが水たまりに入っても殿下自身が拾うように指導しました。
殿下に勝負の厳しさを知ってもらい、テニスを通じて自分の判断、意志、希望が正しく強いものになるように望みました。
知識を詰め込むことだけではなく、知力と体力のバランスが人格形成の重要だと考えました。
この頃の信三の講義メモには「人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言うこと」「グッドマナーの模範たれ」(P161)というように行儀作法、気品について特に記しています。
信三は将来の天皇陛下の先生として重い責任を感じていました。
それがわかるエピソードとして、ある時、信三が自宅で珍しく元気なく、無口で食事取っているのを心配した娘の妙が「どうなさったの?」と聞くと、信三は「東宮様をきつくご注意したんだ」と言って、泣いてしまったことがあったといいます。
1948年、娘の加代に初孫エリが生まれます。
しかし、この子は2歳で亡くなってしまいます。
信三は深い悲しみを感じ、洗礼を受けてクリスチャンになります。
信三と同じく教育係で、皇太子殿下の英語の家庭教師ヴァイニング夫人が4年間に及ぶ任期を終えて帰国しました。
夫人と信三の文通は終生続いたそうです。
軽井沢のテニスコートで行われたトーナメント戦で、信三が実力から見れば、皇太子殿下が勝つだろうという試合相手に負けました。
それが美智子様でした。
落ち着いたプレイで、物怖じせず、品格のある女性でした。
この出会いを経て、皇太子殿下と美智子様のご婚約に信三は心を砕きます。
1959年、71歳になった信三は、文化勲章を受章しました。
1962年には、信三は「スポーツが与える三つの宝」という信三の数ある講演の中でも最も有名な講演を行いました。
ここで語られる宝とは、次の三つです。
特に「練習は不可能を可能にする」という言葉について、おぼれた人を見て、泳げないから黙って見ていなければならない人と、飛び込んで助ける人とは道徳的にも別の種類の人間であるといわなければなりませんと語っています。
77歳になった信三は、尊敬し、生涯のテーマとしていた福澤について、岩波新書「福澤諭吉」として、まとめました。
信三が亡くなったのは、そのわずか2ヶ月後でした。
亡くなる前夜も雑誌原稿の校正を行い、信三は夜11時に横になりました。
夜中、胸が痛み、翌朝発作が起こり、亡くなりました。
心筋梗塞でした。
1966年5月11日、78歳でした。
没後、「練習ハ不可能ヲ可能ニスル」という信三の言葉は、日吉のテニスコート横の記念碑に刻まれ、皇太子殿下がお住まいだった東宮御所のテニスコートにも掲げられたのでした。
また、戦中に行われた「最後の早慶戦」開催などで野球界に貢献したとして、野球殿堂入りもしています。
信三の姉、千と福澤について語ったエピソードが紹介されています。
千は直感で断定的に物を言う人で、信三はその度に怒ったそうです。
しかし、千の直感の正しさに信三が感心したことがあったそうです。
信三が「福澤先生の偉いところはどこだったろう」と尋ねると、千は「それは愛よ」と答えたそうです。
福澤諭吉の偉大さを人が言う場合、近代化の先導者といったことを挙げます。
しかし、本当の偉大さは「人を愛する人」であったという姉の回答は。
信三はまるで予想しておらず、考えも及ばなかったと深く感じ入ったそうです。
娘の妙さんが、父である信三を思い返して「きびしいところのある大層面白い人」と語っています。
11月より毎月1日に「小泉信三を読み解くシリーズ」の連載がスタートします。
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