父を亡くした6歳の信三
例年、慶應義塾横浜初等部の願書には創設者の福澤諭吉の著作『福翁自伝』を読んで、所感を記す指示がありました。
しかし、これまでとは異なり、2020年度の横浜初等部の入試では次のように変更されました。
「『伝記 小泉信三』を読んで、慶應義塾の塾風・気風(空気感)について感じるところを書いてください。」
そこで、この「『伝記 小泉信三』を読みとくブログ」では、これからこの本を手にされる方のために、どんな箇所を気にとめながら読んでいけば良いのか、詳しく解説します。
一 生い立ち
父との別れ、福澤諭吉との出会い
小泉信三が6歳の時です。
父信吉が腹膜炎で45歳の若さで亡くなりました。
今の年長さんの年頃に信三は父親を亡くしているわけです。
信三少年は、悲しいというよりも実感がまだともなわなかったことでしょう。
信三の父、信吉ですが福澤諭吉の教え子で慶應義塾の塾長を務めた人物です。
信三は後に慶應義塾の塾長を務めていますから、亡き父親の意志を引き継ぐように自らの人生を歩んだわけです。
父親の死に際して、こんなエピソードが紹介されています。
信吉の死を悲しんだ福澤諭吉が七百字に及ぶ弔文(ちょうぶん)を書いて、小泉家に送りました。
「福澤諭吉涙を払いて誌す(しるす)」と締めくくられた、この文は小泉信吉という人物を物語る素晴らしい内容だったそうです。
その後、小泉家ではこの弔文を掛け軸に仕立て、信吉の命日になると必ず床の間に掛けたそうです。
亡くなった当時6歳だった信三もこうして、父を深く知り、父の存在を感じながら成長したわけです。
小泉家はその後、三田の慶應義塾構内にある福澤諭吉の邸宅の一棟を借りて住むことになりました。
このように福澤と一緒に住むことで、父の師であった福澤諭吉は母の師、信三の師ともなっていくのです。
このことは小泉信三が、その後の人生、慶應義塾と共に歩むことを決定づけたといって良いでしょう。
もし信三の成人後も父親が存命だったら、信三はまったく別の人生を歩んでいたかもしれません。
福澤諭吉の邸宅に引っ越してくるまで、小泉家は横浜の桜木町に住んでいました。
父信吉は亡くなる前まで横浜正金銀行(現在の三菱UFJ銀行)の支配人を務めていました。
信三は幼少期を過ごした横浜を終生故郷のように思っていたそうですが、あるいは横浜の地で銀行マンになっていた人生があったかもしれません。
まとめ
人生には出会いと別れはつきものですが、信三は早くに生き方を決定付ける転機を迎えました。
幼児期は一生の中では短くとも、人間形成にとって最も大事な時期です。
お父さんや、お母さん、先生のようになりたいと子どもは思ってくれるだろうかと、小泉信三の生い立ちを読んでふと自身を振り返りました。
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